ここのところ、自転車で通勤しております。
そんな通勤途上でよく出会すのが・・・
歩道を遮るように停車しているクルマ。
路地から大通に合流するのに停止線をはるかに越えてタイミングを見計らっているんだけど、歩道を完全に塞いじゃってて迷惑至極。
全く人が通っていないっていうのならわからなくもないけど、そうじゃないところ、つまり人通りがそこそこあってもそこに割り込むように突っ込んでくる。まるで歩行者なんかお構いなし(`皿´)
どうもこの手が目に付いてしょうがない。
運転している人にとって、合流する先のクルマの流れしか関心がないんだよね、多分。
ドライバーに限らず、周囲に無関心な輩が多くなっているように思います。
「歩きながらケータイに夢中になって前から来る人とぶつかる。」とか・・・
「携帯型音楽プレイヤーを聴きながらで、うしろの自転車に気が付かない」とか・・・
「歩道を横一列に拡がって歩く(お前らGメン75か?)」とか・・
「歩道のど真ん中で井戸端会議」とか・・・
周囲の状況がどうとか見えていない人がとみに多くなってるように感じます。
・・・
で、本題。
一昔前に某国営放送のアナウンサーが「気配りのススメ」なんて本で名を馳せたことがありますが、「気配り」って言葉で思い浮かべることってなんでしょう?
お年寄りに席を譲ってあげるとか、重そうな荷物を持ってあげるとか・・・そういうことを思い浮かべるんじゃないでしょうかね。
でも思うに「気配り」ってそういう行為のことじゃないと思うんです。
「気配り」って文字通り「気」を「配る」
要は周囲に対して関心を持つことだと思うんです。そうして周囲の状況を察知して取られた行為が”席を譲った”だとかになるんだと思うんです
それと似た言葉に「気配」っていうのがありますね。
「気配を察する」「気配を感じる」
これは向けられた関心に対しての反応だと思うんです。
コウモリの超音波のように周囲に「気」を発して周りの状況を察知する。周りから発せられている「気」を探知する。周囲にどれだけ関心を持ってるかということですね。
今まではそうやって社会が営まれ生活も円滑に回っていたんでしょうね。今のギスギスした世の中ってのは「気」を発することも察知することを止めてしまったからなんでしょうね。
”愛の反対は憎しみではなく、無関心”
たしかマザーテレサの言葉だったと思いますが、関心がないってことは「愛」がないってこと。逆にいえば関心を持てれば「愛」が生まれてくるってこと?
もっと「愛(関心)を!」ってことですか(笑)
なんだか話が大仰になってしまいましたm(_ _)m
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